『誰も書かなかった 老人ホーム』を読んでみた。
現在、Googleすると、スマホのばあい、キーワード書き込み欄の下に、どこかの記事が出てくることが多い。
刺激的なタイトルが眼をひく。 どれも 面白そうだなあ。
ところで、わたしは、介護の世界でなにをやりたかったんだろう。
初めのうちは、自分好みの施設を作りたかった。
でも、早くも既に、施設はオーバーらしい。
では、既存の施設を紹介することとしよう。
中にはよい施設もあるだろう。今でも、紹介センターはあるし。
そこで、すこしでも肥やしになるよう、キーワード記入欄下の記事のうち、介護施設関係のものには眼を通すことにした。
そのなかで、幻冬舎、GOLD ONLINE の記事が眼を引いた。
惹句として、「どうやって老人ホームを選んだらいいのか?」とある。
なんか、わたしのための記事みたいだなあ。
書いているのは小島勝利さんというかたで、現在、民間最大規模の老人ホーム紹介センターの常務だということだ。
(9月25日の分は下記のとおり)
https://gentosha-go.com/articles/-/29219?per_page=1
早速 記事を読んでみると、話が具体的で、分かりやすい。
これは しめた!と読んでいるうち、量的に物足りないかんじがしてきた。
みると、これらの話は、すべて小島さんの本からの引用だと。
ならば、本を買って読もう。(祥伝社 新書)
早速、読みました。
ここで早くも結論を述べるのは気が引けるが、ちょっと違っていた。
この惹句を作ったのは誰? どうやって選ぶのか、書いてないじゃん!
本の内容は、ハウツーものとは、一線を画すものだった。
確かによく読めば、書いてある(のだろう)。
しかし、こういう目的だったら、この施設だろう、とか、この基準だったら こういう施設がよい、とかは ぜんぜん書いていない。
現在、施設で働いているわが身としては、「そうそう、そうだよね。」は沢山ある。
が、どのような施設が どのような入居者にフィットして、どのような入居者にはフィットしないのか、は書かれていない。
いや、書かれているんだが、あまりにも一般的で、基準とは感じない。
著者も、講演会などでは何べん 説明を訊いても分からないだろう、と述べている。
分かりにくさは、このテーマの本質でもあるし、基準といったって講演者の押し付けだから、ということだ。
ただ、はっきり申し上げるが、こんな良心的な本は、他にないだろう。
なんとも言えないトボケた味もある。
これ以上、戯言をならべても あまり意味はないので、ぜひ直接目をとおしてもらいたい。
わたしも、もう何回か、読んでみる。
『死』は、孤独だが・・・。
前々回と前回、孤独死について書いたら、自分は孤独死するが寂しくは無いという趣旨のコメントを頂いた。
相変わらず迷ってばかりで旗幟が不鮮明で申し訳無いが、私もどちらかというとそんな気持ちでいる。
「孤独」という言葉の曖昧さを割引いても、人間誰しも死ぬ時は一人で旅立って行くわけだが、私の場合、その場に特に家族に居て欲しいとか、そう言った要求は無い。
多分の話しで、確信を持って言っているのでは無いが、一人、寂寥感を噛み締めながらお迎えを待つことになるだろう。
それなら何も、「介護と孤独」なんて大袈裟に論じなくても良さそうなもんだが、現実はそうとばかりは言っていられない。
幸せだ と思しきほうから書くと、死期が近づくと看護師なり医師が何回も出て来て、厳格にバイタルのチェックをするので、落ち着いて寂寥感なんかに浸っていられないし、
はたまた放置され、痒くて痒くて、誰かそこを掻いてくれ!と思っても、誰も掻いてくれないと思うからだ。
看護なんて言ったって、誰も死に行く人の本心なんか分からない。
本当の状況も分からない。
要は、収拾のつかない状況になってしまうのだ。
もう、かれこれ何人の臨終に立ち会っただろうか。
いつも結局はバタついて、静かに見送るということにはならないのだ。
唯一、父のときは静かだった。
ステーキの誤嚥で脳が酸素不足に陥り、集中治療室で1週間、人事不省だったのだ。
その時だけは、1週間たって、医師がどうされますか?と訊いてきたので、もう結構です、と応え、パイプ類を取り外した。
この時だけだったなあ。落ち着いてご臨終だったのは。
その時は、一週間、父が何も語らず、ベッドに寝ていたのを毎日、見ていた。
当時、まだ、会社に勤めていたが、昼に抜け出し、毎日、病院に行っていた。
集中治療室は、微かな機械音だけで、静謐そのものだった。
もう、誰も居なかったので、静かに手をさすり、足をさすって、父を感じていた。
眠っているような父の顔を見ていると、たまらなくなってきていた。
ただ、静かではあったが、父の本心は分からない。
誤嚥で窒息するとき、何を考えていたんだろう。
多分、死の瞬間は、多大な誤解によって進行するのだと思う。
あまり幸せだと思われないパターンは、以前、書いたからもういいだろう。
そこでは、もっと壮絶な孤独との闘いがあるのが普通だ。
さて、ここまで整理してみると、人それぞれとは思うが、「死」は孤独だし、孤独だと騒いでも、いかんともし難い。
それより、そのずう~っと前、いわゆる高齢者、と言われる頃、またそのずう~と前に「孤独」を解決するべく努力するしかないだろう。
「全宅連」の立場・・・孤独死を巡って
先に、神主さんの強烈な体験と覚悟を書かせていただいた。
では、日本の不動産屋の総元締め、全宅連はどう考えているのだろう。
前回も書かせていただいたが、私は元不動産屋で、全宅連には「宅地建物取引主任者の免許更新」とか、かずかずの局面で、大変、世話になっていた。
まじめな組織で、各種研究レベルでは、我が国最高の水準にある、と思う。
私見によれば、部屋の中で孤独死できるヒトは、まだ良い。部屋の中に入れない人々もいる、ということになる。
だが、そんなことを言っていると際限がないので、ここでは一応、部屋に入れるヒト(要は、すこしはお金ががある、とか健康であるとか、正常に近いヒト)を前提に、はなしを進める。
全宅連によると、そのような方々のことを『住宅確保要配慮者』と呼ぶ。
(どなたがお作りになられたか、行政用語としては的確な表現!)
このような方が孤独死してしまった場合、どのように対処したら良いのか、個々の人間が、ああでもない、こうでもない、と言っていても始まらないので、公定的なスタンダードを設けようというということだ。
さて、ではどうなったか。
それとは別に、全宅連としては、「高齢者」という括りで、啓蒙書を出している。
新たに高齢者と契約する、というだけでなく、既存の入居者も高齢化する、というようなことをしっかり書いている立派な研究書だ。
これだけでは、字が細かくてよく読めないだろうが、結局、普通の契約を正確にとり行う、ということになるらしい。
このことから想像されるように、「住宅確保要支援者」を巡る諸問題についても、極力、普通に考えよう、という内容になっているようだ。
ただ、孤独死してしまったらどうするか?
この場合も、
① 孤独死については、原則として説明・告知の必要はないものとする。
(報告書p3)
媒介業者の説明責任についても
④・・・、媒介業者の説明・告知義務は、あくまでも善管注意義務・誠実義務に基づくものであることから、宅建業者が、当該不動産に係る容易に知り得ないあらゆる事実について調査してその情報を収集し、これを説明・告知すべきものと解するのは相当ではない。
(報告書p3)
とされている。
先日の神主さんの実感とは、だいぶ距離がある。
世情が騒がしいので、一応、見解だけは出しておいた、というところに留まらねば良いが・・・。
『孤独死』してしまった方の 御霊 は、どこへ行ってしまうのだろうか。
私も、元不動産屋。事故物件もいくつかありました。
しかし、近年の陰惨な「孤独死物件」のようなことはなかったです。
東洋経済ONLINEの菅野久美子さんの記事を読んでいたら、どうやら世の中はどんどん悲惨な状況に進んでいるようです。
(今回は、主人公の金子宮司の表現が的確だったのか、菅野さんのまとめが的確だったのか、夾雑物が入ると "濁る" ので、殆ど原文のまま、コピーします。)
(2009年、本編の主人公、金子宮司は初めての孤独死のお祓いをします。)
「3階のフロアのエレベーターの扉が開いた途端、とてつもない臭いが充満していた。生まれて初めての臭い。『なんだこれ!』と思った。警察が遺体を運び出した直後だった。体液で、敷かれた布団も床もビショビショだった」
『自殺、孤独死現場の供養、お祓い』というホームページを立ち上げた。すると、すぐに関東一円からお祓いの依頼が殺到するようになった。リーマン・ショックのときは、自殺の依頼が多かった。しかし、徐々にその数は孤独死が逆転していくようになる。そして、現在、事故物件のお祓いの依頼の9割が孤独死となっている。
「孤独死で、安らかに死んでいる人ってあんまり見たことがない。血を吐いたのか、壁にしぶきが上がって、ものすごく苦しんだ跡がある。助けを求めようにも、知り合いもいないし、ただ病気の痛み、苦しみに耐えて死ぬって、こんなに苦しいことはない死に方だと思う」
孤独死の多くが出口のほうを向いて、もがいた跡がある。誰かに助けを求めようとして行き倒れたのだ。
( 出口のほうを向いて、もがいた跡......先日、私が読んだの他の記事とおなじ表現です。みなさん、あまりこの点に注目していないようですが、いざとなったら、私でもおなじ行動をとるでしょう。)
バブル崩壊後だという。「高度経済成長があって核家族化した。それがさらに加速する形で、日本人は孤立していったんだと思う。昔は同じ町に住んでいるというだけで、疑似血縁集団的な町の風景があった。それがバブル崩壊ごろから薄れてきた。非正規雇用も増え、社会の組織に属さない、属せない人がいて孤立する。精神的、経済的にもね。・・・・・・」
「・・・・・・人間は1人で生きていくことはできない。だけど、今はコンビニもあるし、1人で生きていけると最後まで思っている。生活がおかしくなった時点で、本当はもうすべてが崩れていっている。だけど、そうなったときに、頼る人がいない」
「こういう現場に長く携わってると、無縁社会の到来を肌身で感じる。これだけ孤独死が増えてるってことは、日本の崩壊の予兆ということじゃないか。だって人が死んでて、腐っててもわからないんだから。これだけ人口が集中している都市で、50センチ先にも通勤のサラリーマンが歩いている。それで知られないということはもう孤立社会で、崩壊に向かっている兆しですよね」
( だが、金子宮司は、最後にこう独白する。)
俺が最後の砦
「だって亡くなった人にとっては、俺が最後の砦。自分で言うのもおかしいけど。その人に、『これまでの人生、大変だったね』と言えるのは俺しかいない。現場で式典が始まると、汚いという感覚とか、臭いとか一気に消える。孤独死する人は葬式もやらないことも多い。だから自分だけは『お疲れさま』と言って死者と初めて、対話をする。神主がきてお祓いをした。それで、この物件に入ろうかなと思う人がいる。そんな宗教者としての役割が社会にあるなら、俺としてはそれでいい」
いかがでしたか?
私の関心のある、介護されているのに「孤独」だったり、平和な暮らしをしているのに「孤独」だったりするのとは、かなり違いますが、つよく同感しましたので、いじらずコピーしました。
ご関心のある向きは、ぜひ、東洋経済ONLINEを読んでみてください。
https://toyokeizai.net/articles/-/374126
なんか、二次情報の記事が多くて済みません。
本当は、いま、毎日、体験していることを書きたいのですが、
プライバシーの問題があるので、いつか、脚色して書きたいと思います。
ちょっとお先棒を担ぐ → 老化は治療できる病気である → LIFE SPAN
なんだか長ったらしい標題になってしまい、ごめんなさい。
本の紹介です。
英語の題は、簡単に LIFE SPAN です。
この本に関しては誤解を避けるため、こんな書き方になってしまいました。
この本は、次のことを主張しているらしいです。
これがみな真実だったら、大変な話ですね。
しかし、書いているのはハーバードの有能な学者、デビッド・A・シンクレア氏で、
サーチュイン遺伝子、レスベラトロール、NADの前駆体など、老化を遅らせる遺伝子や低分子の研究で注目を浴びているとのことです。
私が着目したのは、人生100年時代だ、というから問題があるのであって、人生が120年だったらどうか、という問題提起を見たからです。
私が勤務しているグループホームの話をしたかと思いますが、もう80歳ぐらいになると、さすが、色気は無理な感じです。
前回、小野さんから映画館に入るにも歳の若い女性と夫婦だと言って入ってしまったら良いとアドバイスを頂きました。
この場合、若いと言っても相対的だと仰っておられましたが、さすがに、90歳を超えて、40代、50代の女性とデートしろと言われても困ってしまいます。
その点、120年時代になっていれば、90歳なんて、まだまだ青いのお、とか言っていられるわけです。
まだまだ青い。
なんだか、わくわくしてきますね。
16日に東洋経済から発売とのことです。
愛玩動物飼養管理士2級教本第1巻 ・・・ペットと孤独
愛玩動物飼養管理士2級という資格があって、これが第1巻。
当然、第2巻もある。
なんで、こんな資格が作られたのかよく分からないのだが、世にはペット好きが沢山いらっしゃって、スーパーとか行っても、ペット用食品、用具のコーナーが必ずある。
また、我が家のそばの商店街でも、ペット好き同志の挨拶が盛んで、こっちはまるで部外者扱いだ。
では、この資格は誰が発行しているのだろう。
それは、公益社団法人 日本愛玩動物協会というところで、既に40年の歴史を誇るという。
https://www.jpc.or.jp/
この飼養管理士の資格保有者も、19万人を数えるというから大したものだ。
ところで、このブログは「介護と孤独」をテーマにしているのに、なんでペットの問題が出てくるの?と怪訝に思われた方もいらっしゃるだろう。
実は、この資格の関係者が寄稿しているのが、この本だ。
「看取り犬・文福」(若山三千彦/宝島社)という本なのだが、横須賀にある『さくらの里 山科』という特別養護老人ホームで、いかに高齢者が「犬・猫」に癒されているか、が書かれている。
ひとり、ひとりのワンちゃんや、ニャンちゃんは、保健所から引き取った保護犬、保護ネコが多いのだが、それぞれ不思議な能力を持っていて、人間を驚かす。
なかでも不思議なのは、ひとが旅立つのが分かり、看取りをする犬だ。
「文福」という茶釜みたいな名前だが、この犬が賢くて、入居者が旅立とうとすると、それを察知し、二三日前から部屋のまえに佇んでいるらしい。
ヒトの死期なんか分かるわけないだろう、と思ってしまうが、事実が証明している・・・と言う。
多分、そうなんでしょうね。
ちょっと引っ掛かるのは、昔なつかし、「一杯のかけ蕎麦」風の記述が多いのだ。
あまりにも根拠が薄弱だ。
しかし、ワンちゃんやニャンちゃんと思う存分じゃれ合って、最後を迎える人生が楽しくない筈はない。
ペット好きに幸いあれ。
まあ、皆さん、生きている間、ペット以外のこころの友はいなかったんだろうなあ。
人生、100年時代とはいうものの・・・。
人生100年時代とは、言わずもがな数年前に流行った『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)100年時代の人生戦略』で使われた言葉で、当時、えらい流行った。
この本の読まれ方がまた凄くて、普段、読書とは関係なさそうな御仁まで読んでいて、伊藤、まだなら貸してあげるよ、と言われたのにびっくりしたのを覚えている。
テーマとして、寿命の長期化によって先進国の2007年生まれの2人に1人が103歳まで生きる「人生100年時代」が到来する。
ということは、100年間生きることを前提とした人生設計が必要だ、ということになる。
とは言え、
いきなり、100年は生きてしまうよ、と言われるとギョッとする。
死にたくても、死ねないのだ。
今、私は会社人生を終えて、もう10年になる。
さすが、10年も経つと、社会からも相手にしてもらえなくなり、寂しい人生だ。
でも、死ねない。
人生100年時代になったら、どうすれば良いんだろう。
『LIFE SHIFT…』の著者たちは、100年時代には、年齢による区切りがなくなり、学び直しや転職、長期休暇の取得など人生の選択肢が多様化すると予想しているようだ。
学び直しや転職?これじゃあ、今までと何も変わらない。
寿命が伸びたメリットが特に無いのだ。
相変わらず、今までと同じ人生で、ただ生活費の心配が長期化しただけとなる。
今、私が勤務するグループホームには102歳、98歳、その次は何歳かな?が暮らしている。平均年齢は軽く90歳オーバー。
いずれの方も、健康で、特に食欲の健全さは特筆ものだ。
朝、朝食を済ませ、すぐにお十時、次いで、お昼。ようやくお昼が終わり、歯を磨いたら次はお三時、それが終わると、はや夕食だ。
これを殆ど残さず食べる。
1日便通が無いとマイナス1、とカウントするが老人なら誰しもマイナス1ぐらいになる。
で、マイナス2とか3になるとラキソベロン等が処方される。
そうすると、すんなり出るのである。
要は、老人になると寝て、食べて、出す、また寝て、食べて、出すの繰り返しとなる、ということだ。
考えてみると、若いころから、生きるってことは、寝て喰って出すだけの繰り返しだったなあ・・・。
前回、美人節約ママが、いきなり80歳、90歳になったら思い出す、と言っていたが、もうこんな歳になったら何もできない。
『思い出』だけが人生かもしれない。